あるがままで十分


毎春、鯉が黄河上流の兎門にある三段の滝登りに挑戦します。
ほとんどの鯉は登りきれませんが、中に三段の滝を全て登りきる鯉がいて、するとその鯉は龍に変じて天に昇って行くといいます。
これを禅では困難を乗り越えて一心に修行を重ねれば、やがて龍のような素晴らしい悟りの境地にたどりつくという意味に使います。
ところが、唐代の僧・重顕禅師はこう言いました。


「鯉は鯉で、なに不足」。
「鯉が鯉のままであるのがなぜ不足なのか、なにも鯉が龍になる必要はない」と。

誰もかれもがまなじりを決して出世しようとしたり、成功者を目指したりする必要はないということです。
「世の中は駕籠に乗る人、担ぐ人、そのまたわらじ作る人」という言葉もあります。


社会には様々な仕事が必要で、それを担う様々な人で成り立っています。
今の自分の仕事やポジションに不足を持つ必要は全くないということです。
「乗る人」が威張ることも「担ぐ人」が卑下する必要もありません。

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